国語は本当に苦手意識を持っていた。
ただうかつにこの話をすると、「僕も1だったんですよ~」というときもあって、あまりそう言ってはいけないとも思う。
中学生のときの評定はずっと5だったからだ。
ただし、その5の中身はひどい。
国語の読解問題を全部暗記して、試験にのぞんでいた。
こんな勉強では先伸びするわけもなく、当然高校ではどうしていいか分からず、結局何もしないままであった。今なら、古文漢文で押さえるという手もあるのだが、当時は何の対策もせず、妙な「勢い」で気持ちだけでしのいでいた気がする。国語のセンター試験(当時は共通一次)最低点の目安は130点だった。よくても140点でだいたいこの間におさまっていたと思う。いつも160点を超える友人がいたが、別格だと思い込んでいた。実際、論文で京大に合格し、遊びほうけて、中退し、その後、工場長をやっていると聞いた。あらためてたいしたやつだと思う。

もどろう。

当時の私は、国語の記述には「どう書いたらいいかわからない」という問題点はあったが、
それ以外の問題に関しては大丈夫だった。
でもいったい何が大丈夫だったのだろう?
愛知県の公立入試の当時の記述は、故事成語を用いた短文作成だったので、この程度ならできた。
今の公立入試についても、誘導があるので、比較的取り組みやすい。チャート式数学で言うなら、チャート付きの問題といったところ。誘導に沿えば、時間は少しかかるが、作業に近い。

その後、学習塾を始めてしばらくたってから、国語の勉強をあらためてしたことがあった。そこだけずっと中途半端な思いがあったことと、

石原千秋さん

の中学受験対策の本を読んで、自分の考え、そんなに間違っていないなと思ったことがあった。

その後、センター国語をじっくりと取り組んでみると、
「確かにセンター試験は、ちゃんと選べるようにできている」
ということはわかった。正解を得ることはできるのだ。

しかし、国語力がついたとは思えない。
言うまでもなく、国語で有名な出口先生が言うように、センター試験の選択肢の解答は、京大の記述のようだという意味は今でも分からない。受験しているんだけれど。当時の農学部も2次でも国語があった。

先ほど、「国語力」という言葉を使ったが、世の中で言われる国語力と
私が言っている国語力は、明らかに違う。

世の中では、数学でも国語力が必要と言われるが、この考え方は私は好きではない。
はやりの言葉を借り物しているような気がするのだ。エビングハウスの忘却曲線を10覚えても半分は忘れるという適当な解釈と似たものを感じる。(もっと正確に使えと言いたいが、分かりやすく、ということなのだろう。)
私自身は、数学の問題は、読解力とは別物で、1回読んだだけで分からなければ、何回も読むと解決できることだと思う。
一方で、国語で求められる問題は、問題文をそのまま解釈すればいいレベルを超えている。本文の要約であったり、本文には書いてない言葉で表現することもある。数学では、要約はない。そのままの解釈である。国語の文で、はたしてそのままの解釈がありうるだろうか?詩をみれば、あきらかにそうではない。
数学で国語力が必要というのは、国語を売りたいがための詭弁でさえあると思う。とはいえ、国語という科目を否定までするつもりはないし、教科書レベルの語彙力がない人が、読解力につながらないというのなら十分にわかる。そういう意味では国語は大切である。ただ語彙力を読解力といいかえるのは、あまりにもゆきすぎではないだろうか。と思うだけである。



てなわけで、
国語のサンタ―試験までなら、選択肢があるので、選ぶことはできるが、
あれを「書け」と言われると、かなり自信がないだけでなく、自分に可能性を感じない。
というわけで、国語の指導は自分にはふさわしくないと思っている。

ただ一つありがたたいのは、入試で扱われる文章は、面白い。
これは本当にそう感じる。
これがセンター試験と取り組んだ日々の報酬かなと思う。